中平龍二郎氏(武揚堂OB) 「地図で楽しむ一人旅」

第2回 地形図を持って旧道を探す(その2)

フランス式彩色地図について少しばかり触れて見よう。正式には「第一軍管地方2万分の1迅速原図」とよばれるもので、陸軍参謀本部が明治13年から19年(1880〜86)の期間に関東平野のほぼ全域と三浦半島を測量作成された地図原図である。しかし、そのままの形では発行されなかった。

徳川幕府の陸軍はフランスの指導を受けて近代化を図っていたが、明治政府の陸軍も当初これを継承していた。
その後、普仏戦争でフランスがプロシャに敗れるとフランス式からドイツ式に改め、地図も改められた。迅速測図はフランス式彩色地図をもとにして編集されている。


あくまでも仮定の話であるが、もし、軍制がドイツ式に改められなかったら、その後の日本はどうなっていたであろうか。
当時、プロシャ(ドイツ)はイギリス・フランス・ロシアなどの列強に遅れ、植民地支配に乗り出していた。当然、富国強兵策がとられていた。これらの思想が日本に与えた影響は大きかったであろう。
日中戦争・太平洋戦争は勃発していたのであろうか。内外の近代史研究者はどう見ているのであろうか。大変興味のある問題ではないか。


平成12年頃、私は埼玉県立博物館が発行した「さいたまの海」を入手した。早速、博物館を訪れたところ大きな地図が掲示されており、縄文海進時の海岸線が描かれていた。
海岸線は栗橋付近まで入り込んでいた。川崎に目を移すと多摩川河口より内部に海岸線が描かれていた。


数日後、川崎市民ミュージアムに赴き、川崎の海進をビデオで見た。その後、私が所属する宮前区歴史文化調査委員会の人から川崎の海進を示した地図を入手した。
最大規模の海進が起きた縄文中期の海岸線を参謀本部(現国土地理院)が作成した明治45年の地形図に編集した。その地図で検証すると海岸線は大山街道辺まで進出していた。


そうこうするうちに多摩・鶴見川流域の変化を知りたくなった。時代の変遷を比較するため明治45年・昭和7年・昭和30年・昭和42年・平成7年の各地形図を選んだ。明治末期から現在まで流域には余りにも大きな変化があった。
ここでは詳述するスペースがないので、大山街道に関係した事項を簡単に紹介する。明治45年図では多摩川が複雑に流れ、東京市と神奈川県の行政界も入り込んでいる。二子橋は架橋されず、二子の渡しの名称と記号が記されている。
多摩川流域の神奈川県側には水田・桑畑・果樹畑が広がり、農村風景が広がっていたようだ。
街道沿いの高津町(現川崎市高津区)には家屋連坦記号が記され、当時の大山街道の繁栄が偲ばれる。


昭和7年図では南武鉄道(現JR南武線)が敷設され武蔵溝ノ口駅が開設されている。また、二子橋が架橋され、渋谷駅から武蔵溝ノ口駅間に玉川電車(東急新玉川瀬・田園都市線)が開通している。
昭和30年図では大きな変化は見られない。昭和42年図には溝口付近から水田が消え、東名高速道路や第三京浜道路が付近を横断している。80年余の時間はこんなに大きな変化をもたらすのか。地図を眺めながら思わず溜息をついた。


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