地形図の概要
2地形図と武揚堂


◆110年前の武揚堂創業から太平洋戦争まで

1897年(明治30年)、現在地=東京日本橋に初代社長・小島棟吉は武揚堂書店を設立しました。棟吉翁は敬虔な仏教徒であり、書店を興す10年程前から「仏教大辞典」刊行の編纂事業を続けてきました。1908年(明治41年)、ついに全巻を発刊することができました。この間に、1905年(明治38年)からは、国土地理院の前身にあたる陸軍参謀本部陸地測量部発行「地形図」の全国元売捌を開始しております。

 

地形図の歴史は、当時、世界の列強はもとより、各国が軍需用として、測量・編集・印刷を行うことを立前としていた時代で、日本もようやく近代的測量技術を根付かせ、当時の最先端技術の水準を示した、まさしく近代国家の偉容を周知させる作品として、さらに行政・民生向きでの実用地図として、広く全国的に頒布されました。

 

日本は、日清戦争、日露戦争、第一・第二次世界大戦と大変な歳月を戦争に費やしましたが、測量技術や印刷法は常に最高水準を誇ってきました。武揚堂はこの時代にあって、壊滅的な出来事に2回も遭遇し、1923年(大正12年)の関東大震災では、木造社屋をはじめ商品の全てを焼失しました。当時の東京日々新聞に「帝都に復興の槌音、第一号」との見出しのもと、弊社仮社屋建設現場が写真入りで報道され、そして震災後10日間たらずで地形図業務を再開する偉業とも伝えられました。

 

1927年(昭和2年)、耐震・耐火の時代と考え、本格的な鉄筋コンクリートで新社屋を建設し、自然災害からの難を免れることに務めてきました。1945年(昭和20年)、戦災により、社屋は焼夷弾の被害を受けましたが、幸い、焼け野原の中に社業再開の社屋は残ったのです。地形図業務は、戦時中に数社の全国元売捌所が、国の命令により「日本地図共同販売会社」として、終戦まで合同で行われました。

 

◆戦後の地形図普及活動

武揚堂は、全国元売捌所は3社以上と規定されたのを機に、共販制を解き「株式会社武揚堂」として再開の運びとなりましたが、時を同じくして、急激なインフレの波に戦後の経済が翻弄されました。国はインフレ防止のため、政策の一つとして、一定の制限を設けて配給する証紙を貼付することなしには、紙幣を使えないようにしました。そのため流通経済に貨幣の不足が生じました。

 

武揚堂としても、地形図の払い下げを受ける量が制限され、復興に必要な地形図を販売店に供給できない事態が起きてきました。武揚堂は大蔵省と折衝し、証紙のない紙幣でも、国に直接入金され、市中に紙幣が出廻るものではないとの見解を示し、復興に必要な地形図の放出を願い出たということです。ついに国の在庫の全ての払い下げを受けることに成功しました。平時であれば、その元売捌所毎の販売先へ供給する慣わしでしたが、その時は、各捌所の求めに応じ、後払い方式で地形図を譲ったといいます。わずか1ヶ月間ほどの期間に、国の倉庫に眠っていた地形図が、全国の書店(販売代理店)に出廻り、復興需要に貢献したとのことです。

 

この時期には、書籍の大取次店からも供給を受けたいとの要望があり、武揚堂はこころよく少量であれ大量であれ、求めに応じました。この商取引が60年前から今日まで続いており、書店にオーダーすれば、僅か1枚の地形図でも送料無しで購入できる仕組みが生まれました。戦後から昭和の中程まで社長を務めた小島文雄は、(社)地図普及協会(現:地図協会)の設立に力を注ぎ、日本の戦後の復興に地形図を普及し、社会の発展に尽くしました。

 

◆今後の武揚堂と地形図

現代における地形図は、官・民需用情報地図の骨格的な空間情報として、幾多のコンテンツを供給し続けています。電子技術の進展に平行して、官民を問わず、新しい地図の未来を求め、様々なシステムが開発されています。人工衛星による測量技術の急速な進歩もデジタルとしての地形図、紙画像の地形図の姿を新たにしています。その基礎的な価値が、より多層の情報を提供してくれるものと確信しています。

 

武揚堂は世の求めを先取りし、地形図の普及業務に、これからも大いにチャレンジし続けます。